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伊賀上野伊賀市名張市へ、観光に、合宿に、またビジネスでお出掛けの際にぴったりのお宿。会食宴会のご要望も承っております。

観光旅館ふじ

〒518‐0878 三重県伊賀市上野西大手町3684
電話番号:0595‐21‐4011(代) FAX番号:0595‐23‐2590

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当館紹介

芭蕉翁句碑について

建碑のごあいさつ

句碑の写真

 観光事業を家業とする私は、旅先での土地の風土や歴史に深い関心をもっています。

 昭和54年、東北を旅し、伊賀上野が生んだ郷土の先賢松尾芭蕉翁がいたるところでいまなお敬愛せられ、顕彰されていることを知り、つくづく我が身をかえりみてはづかしく思うようになりました。

 そうした気持も手伝い、何か顕彰事業の一端ともなればと考え、折にふれて友人達と話していましたところ、たまたま山本茂貴先生より芭蕉翁の句にちょうどふじ旅館にとってまたとない名句がのこっているときかされました。

 そこでいろいろ思案のあげく、山本先生より俳文学会の英才で成城大学教授(当時)尾形仂先生にご相談下さったところ、芭蕉翁の句碑にふさわしい俳人加藤楸邨先生へこちらからお願いしてあげようとの有難いお取り計らいで、お蔭をもって楸邨先生のご揮毫をいただき、順調に事が成就いたしました。これも芭蕉翁のふるさとに生きるもののしあわせと存じております。

 私は家業が旅館ということもありますので、芭蕉翁を家業に利用するということにうけとられてはと躊躇もいたしましたが、決してそうした冒涜じみた考えにたっているのではなく、上野にお泊りいただく旅の方には、この芭蕉翁の句にしめされた心情に通ずるものがあろうかとも思い、旅情をより深く味わっていただき、「稽古照今」の気持で伊賀の風土と人情をめでつつ、旅を楽しく過ごしていただければこの上にもない幸せと存ずる次第でございます。

旅館ふじ 先代館主

句碑に刻まれた「草臥(くたびれ)て/宿かる比(ころ)や/藤の花/芭蕉翁」の字形

加藤楸邨

俳人。明治38年-平成5年。本名は加藤健雄。

〔閲歴作風〕

 山形県大月に生まれ、父の転任により各地を転々。はじめ短歌に親しんだが、鬼城の句に接して強く俳句に心をひかれ、昭和6年粕壁中学に奉職中秋桜子に師事、15年東京文理大卒業、この年「寒雷」を創刊。作風は初期の「馬酔木」的な唯美調から漸次生活に密着した人間臭の濃いものとなり、俳句という短詩型に現代に生きる自己の人間的要請を全的に生かそうとする苦悶は一時、難解派の譏りを招いたが、人間探求を標榜して俳句をそのぎりぎりの限界まで追いつめた意欲的な追求は草田男らとともに現代俳句に新たな進路をきり拓いた。

〔編者〕

 句集「寒雷」、「颱風眼」、「穂高」、「雷後の天」、「砂漠の鶴」、「火の記憶」、「野哭」、「起伏」等があり、他に「俳句表現の道」、随筆「隠岐」、「芭蕉句集」等の著書多し。

〔芭蕉翁句意〕

 自から風羅坊と号した漂泊の詩人松雄芭蕉は、「涯ては野ざらしになろうが、自分の理念を追求するための旅はしなければならぬ」という強い信念を支えにして、旅から旅への生涯を送った。

 その旅のひとつに「笈の小文」がある。

 貞享4年(1687)8月下旬、曽良を伴って常陸鹿島の根本寺に仏頂和尚を訪れた芭蕉は、更にその年の10月28日には、風狂の心やまず、笈の小文の旅に出、古里の伊賀上野へと向っていた。

 その門出にあたって、知人門弟から、にぎにぎしく餞別の吟を贈られた芭蕉は、「故ある人の首途にも似たりと、いと物めかしく覚えられけり」といい、「旅人とわが名よばれん初しぐれ」の吟をのこした。

 その年のくれ、伊賀に帰った芭蕉は、「古里は臍の緒に泣く年のくれ」の吟を得て、翌春3月、上野にきていた杜国(万菊丸)をともなって吉野の花見に出かけた。

 その旅中、名所旧蹟を巡遊して丹波市(天理市)の附近で、「ほととぎす宿かる比の藤の花」の吟じた。

 この句案は「泊船集」に「大和行脚のときに、たはむ市(丹波市)とかやいふ処にて日の暮かかりけるを、藤の覚束なく咲きほこれけるを」という詞書によって知られる。

 また、この旅先より上野の門弟、久保田猿雖に宛てた書状でも「ほととぎす」の初五文字の初案で近況を伝えたが、その後の推敲により「ほととぎす」は「藤の花」と同季語にあたることから初五文字を「草臥れて」と改めることによって、薄暮のなかにほんのりと、覚束なげに揺れ咲く藤の花の、淡いうれいが、疲労と旅愁に堪えかねる旅人の心と響合い、深いあわれと詩境をいざなう名吟となった。

(文)俳文学会員 山本茂貴

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